訪問看護と介護 2015年9月号
去年の今頃、佐藤初女さんと、田口ランディさんの対談が逗子で行われた。その際に、田口ランディさんのブログに、「在宅での看取りに関するコラム募集」みたいなものを発見して、(私が面白いと思ったのは、なぜか医療関係者ではなく、田口ランディさんから知るということ・・・・)投稿してみた。
私は残念ながら落選したとの連絡を受けて、すっかりそんなことを忘れていた。
ところが、忘れた今頃になって、最終選考まで残ったあなたの論文を掲載したいと、編集者から連絡があった。それは、まさに思いがけない贈り物であった。
夫と協力して成し遂げた姑の看取りについて、どこかで語り継ぎたいという想いがあった。
私が姑に対して、よい感情を持っていなかったけれど、自分の看取りケアのプロとしてのプライドと、これまで培ってきた知識や技術、そして見返りを求めない関係性を築くといったこと。
これらが全て統合されてできた看取りだったのだと思う。
私は、看護師で、看取りをしてきたという自負があったけれど、夫は人を看取ることも、介護することも、これまでずっと一緒だった母親と別れることも、はじめてのことだ。
それでも、プロとしての視点や手があれば、家族としての看取りを完結できるのだということを目の当たりにした。
夫の素晴らしいところは、私に全てを押しつけるのではなく、自分の母親だから介護するのは当然と想いながら、おむつ交換も、身体を拭くのもマッサージするのも、食事を介助するのもやってのけた。私よりも優しい言葉をかけて、
「お母さん、左を向くよ~。左足の親指さん、ひとさし指さん・・・・」ゆっくりと丁寧にマッサージをする姿に私も心を打たれたが、何よりも姑はとても喜んでいた。
男性の温かでぷっくりとした手のひらは、本当に気持ちがよいものだ。姑は、ずっと息子にただ優しく触ってもらいたかったのだろう・・・・そんな時間が過ごせたことを、満足そうにされていた。
クリスマスの前に、夫が一生懸命姑にクリスマスカードを書いていた。そのカードには
「産んでくれてありがとう」
その言葉で、姑はどれだけ救われたのだろうと、一緒に涙ぐんだ。
夫と姑の二人歩む姿
母親との確執がある、父親との確執がある・・・・。
そんなことは、当たり前のようにあり、親が自分の毒になることも、今や書籍で紹介され、売れているという。
私は、亡くなった後に、嘆き悲しみ後悔する家族と出会う機会が多い。
あるいは、感情がフリーズしたままの人とも話すことがある。
亡くなった後に、グリーフケアや、セラピーを受けるのもよいかもしれないが、生きているうちに出来ることをしてほしいと切に願う。
そういった人達が少しでも減るように、私は看取りのお手伝いをしたいと思うし、家族が最期に一つになれる時間を大事にしてほしいと心から願う。
掲載してくれた 「訪問看護と介護 2015年9月号」
は、様々な在宅での看取りについての話が載っていて、興味深かった。
特に大賞をとられた方の人工呼吸器をつけた子供を、家族一丸となって看護して看取った話は、心にぐっときた。
死は終わりではなく、何かのはじまりなのかもしれないし、何かを産みだすものなのかもしれないと、また改めて思った。
投稿された内容をみたいと思う人は、ぜひ、ご購入を!
また、私の文章だけお譲りすることができます。
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premdeva82☆gmail.com(☆マークを@マークにかえてください)
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