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2015年11月16日月曜日

キャパシター ~こころとからだのケア体操を学ぶ

目黒の学芸大学駅周辺でチネイザン(気内臓療法)をしているホリスティックナースのあれやこれや
capacitar創設者 パトリシア・ケイン先生

緩和ケアに従事していて、大切にしていたものの一つに、残された家族へのグリーフケアがある。愛する者をもしくは、憎しみを抱いていた家族やパートナーを失った時、人は、悲嘆のプロセスをたどる。その人それぞれの歩みで。

病院でできたことはと言えば、1年に一度の遺族会や、月に一度カウンセラーの先生がしている家族会でのフォロー。その会に来ない、来れない人はどうやって過ごしているのかとふと気にすることが多々あった。

私にとっては、素晴らしい看取りだったと思う人に対しても、家族は様々な感情を抱いている。後悔だったり、嘆きだったり。

何年経っても忘れられない言葉の中に、
「私の想いは誰に言ったらいいの?前は病院に来れたのに。でも今はそうではないでしょう?」と。

そう。亡くなった人の想いでを語らう場所は、なかなか見当たらないものだ。

そして、訪問看護を行っていて感じたのは、残されゆく家族は、大きな二つのグリーフを体験するのだということ。

毎日のように来てくれる私達訪問看護師、医師、ヘルパーさんや、その他在宅をとりまくサポートする人達が、家族が亡くなることで、パタリと来なくなる。

そして、一生懸命介護していた家族が亡くなる。自分の役割も失う。

多くの喪失がやってくるのだと感じた。

それを支えていくためには、在宅でのグリーフケアの充実は欠かせないと思っている。

そんなグリーフケアにかじりついていたところ、グリーフケアの教育や普及活動に尽力をつくす
リヴオンhttp://www.live-on.me/のてるみんが、キャパシターというツールを紹介していた。

これは、と思い参加してみると、簡単な気功や、太極拳のような動き、呼吸法や、EFT(感情開放タッピング)を取り入れた一連のエクササイズだった。

創設者のパトリシア先生が、27年前からトラウマや身体の痛みを解放する方法として、世界各国に紹介しているこのツールは、とてもシンプルで効果のあるものだ。http://capacitarjapan.weebly.com/1246112515124971247112479125401239212399.html

セルフケアの一つとしてやり続けていた気功や、ヨガ、呼吸法などを取り入れていくことはできないのかと思っていたところ、もうすでにやっている人がいたということに驚いた!

しかも、私が一番孤独で苦しんでいるときに、助けになったEFTも取り入れていたことには、さすがと想った。
EFTとは、顔のポイントをトントンと優しくタッピングしていて、凝り固まった感情を流していくものなのだけれど、泣きながら、トントンと顔を叩いていたことを思い出す。

参加していた方は、かなりヘビーなトラウマや、感情を抱えていたのだけれど、終了後には頬を赤らめ、気持ちが軽くなったと笑顔で帰られていくのが印象的だった。

やっぱり、トラウマや、感情のしこりやもつれは、身体を通して流していくしかないのだろうと再確認した。

シンプルで、誰もが続けられるものというのが何よりだと思う。
今始めれば、あっという間に10年なんて経ってしまう。

これから、よりよく人生を生きていくうえで、失ったものに執着せずに、今この時に感謝しながら生きていくうえで、身体とこころに癒しをもたらすツールは絶対的に必要だと思う。

キャパシターもこれから、続けていきたいなと思う。


そして、無極功をなぜ自分が習ったかの一つの理由を思い出した。それは、寝ている人や病気の人でも気功ができると言われたこと。目を閉じてイメージしながら行うことでも、よいんだ?!と想ったのが、はじめたきっかけだ。

どんな人でも続けられるシンプルなものが、一番いいと思う。


☆☆☆☆
無極功の連功会は11月29日(日)です。http://www.reservestock.jp/events/92174
お時間のある方は、ぜひご参加ください!


2015年9月6日日曜日

訪問看護と介護の雑誌に掲載されるの巻

目黒の学芸大学でチネイザン(気内臓療法)をしているホリスティックナースのあれやこれや
訪問看護と介護 2015年9月号

去年の今頃、佐藤初女さんと、田口ランディさんの対談が逗子で行われた。その際に、田口ランディさんのブログに、「在宅での看取りに関するコラム募集」みたいなものを発見して、(私が面白いと思ったのは、なぜか医療関係者ではなく、田口ランディさんから知るということ・・・・)投稿してみた。

私は残念ながら落選したとの連絡を受けて、すっかりそんなことを忘れていた。
ところが、忘れた今頃になって、最終選考まで残ったあなたの論文を掲載したいと、編集者から連絡があった。それは、まさに思いがけない贈り物であった。


夫と協力して成し遂げた姑の看取りについて、どこかで語り継ぎたいという想いがあった。

私が姑に対して、よい感情を持っていなかったけれど、自分の看取りケアのプロとしてのプライドと、これまで培ってきた知識や技術、そして見返りを求めない関係性を築くといったこと。

これらが全て統合されてできた看取りだったのだと思う。

私は、看護師で、看取りをしてきたという自負があったけれど、夫は人を看取ることも、介護することも、これまでずっと一緒だった母親と別れることも、はじめてのことだ。

それでも、プロとしての視点や手があれば、家族としての看取りを完結できるのだということを目の当たりにした。

夫の素晴らしいところは、私に全てを押しつけるのではなく、自分の母親だから介護するのは当然と想いながら、おむつ交換も、身体を拭くのもマッサージするのも、食事を介助するのもやってのけた。私よりも優しい言葉をかけて、
「お母さん、左を向くよ~。左足の親指さん、ひとさし指さん・・・・」ゆっくりと丁寧にマッサージをする姿に私も心を打たれたが、何よりも姑はとても喜んでいた。

男性の温かでぷっくりとした手のひらは、本当に気持ちがよいものだ。姑は、ずっと息子にただ優しく触ってもらいたかったのだろう・・・・そんな時間が過ごせたことを、満足そうにされていた。

クリスマスの前に、夫が一生懸命姑にクリスマスカードを書いていた。そのカードには
「産んでくれてありがとう」
その言葉で、姑はどれだけ救われたのだろうと、一緒に涙ぐんだ。
夫と姑の二人歩む姿

母親との確執がある、父親との確執がある・・・・。
そんなことは、当たり前のようにあり、親が自分の毒になることも、今や書籍で紹介され、売れているという。

私は、亡くなった後に、嘆き悲しみ後悔する家族と出会う機会が多い。
あるいは、感情がフリーズしたままの人とも話すことがある。

亡くなった後に、グリーフケアや、セラピーを受けるのもよいかもしれないが、生きているうちに出来ることをしてほしいと切に願う。

そういった人達が少しでも減るように、私は看取りのお手伝いをしたいと思うし、家族が最期に一つになれる時間を大事にしてほしいと心から願う。


掲載してくれた 「訪問看護と介護 2015年9月号」

は、様々な在宅での看取りについての話が載っていて、興味深かった。

特に大賞をとられた方の人工呼吸器をつけた子供を、家族一丸となって看護して看取った話は、心にぐっときた。
死は終わりではなく、何かのはじまりなのかもしれないし、何かを産みだすものなのかもしれないと、また改めて思った。

投稿された内容をみたいと思う人は、ぜひ、ご購入を!
また、私の文章だけお譲りすることができます。
ご希望の方は、ご連絡をください。
premdeva82☆gmail.com(☆マークを@マークにかえてください)

2015年8月21日金曜日

弔いのお花

目黒の学芸大学でチネイザン(気内臓療法)をしているホリスティックナースの日々のあれやこれや
訪問看護のお仕事の中で、亡くなった方に訪問に伺い、お話を聴くというグリーフケアをすることがある。正直、このケアは一銭のお金ももらうことができない。介護保険や医療保険どの制度からもはずれる。

それでも、これまで在宅での療養を続け、通夜や葬儀など目まぐるしく忙しくされていた御家族への労いをかねての訪問は大切なことだと思っている。

学芸大学の大好きなお花やさんFANで、淡い感じで優しいアレンジをとお願いをして、おうちに訪問した。
http://flower-fan2.blog.so-net.ne.jp/

部屋に入ると、遺影の写真と共に、特製の様々な写真を集めた「ありがとう」のボードが飾られていた。御家族は、まだ色々とした雑務に追われ、忙しそうにみえた。

介護をしていくうえで、私達は彼らにとって同志とみえるのではないかと思う。一人だけでは、決して在宅介護をすることは困難だ。時に悩み、苦しみ立ち止まり、どうしたらいいのか分からない時に、やはりプロの力が必要だ。頑張っている御家族をみると、私達も何とか少しでも、家族の助けになりたいと思う。

在宅では家族も私達医療者もみんなが一つになってのチームなのだ。

ご家族と話をしていて感じたのは、やはり死んでいる人をみる機会がない人にとって、死ぬ間際に何か医療的行為をしないことが、人を殺してしまったのではないかと思うことだ。

朝、ご家族が目を覚ますと、すでに呼吸をしていなかったその人に対し、自分のせいで死んでしまったのではないかと、家族ははじめ慌てていた。

こういうことは実際、家でなくとも病院でもあることで、夜勤者がラウンドすると、すでに呼吸が止まっている。私自身もそのような経験は何度かある。

死に目に会えなかった家族は、複雑な心境をもつが、故人は一人で旅立ちたい人もいるのだと思うようになった。

一般の人の中には、テレビや映画の映像から、呼吸停止すると、心臓マッサージなどの心肺蘇生をするのが当たり前であり、それをしないのは人を見殺しにしていると思う人もいるのだと、感じることがある。

しかし、終末期と診断を受け、生を長引かせるための延命処置をはせずに、尊厳死を望む人たちにとっては、ただ呼吸が止まるのを見守られることが、一番のケアになり、決してそれは殺人を補助したということにはならない。


終末期医療や、延命処置について、学びたい方は緩和ケア医の大津先生の本を一読されたし。

先生はみじめではない安らかな週末を迎えるためには、
1.病気への正しい理解ー最初から最後まで、自分の病気に対して目をそらさずに真実を追求する姿勢が大事であり、きちんとした病気の知識を手に入れることが必要

2.がん告知、終末期に対するシュミレーションー事前に家族と死や告知について話しておくことが大事でそれが必要

3.緩和医療を受けることー緩和医療に精通した石川貴章にかかることが大事でそれが必要

4.延命治療を拒否することー延命治療という言葉で一括りにせず、必ず具体的な一つ一つの治療についてその必要性を可能な限り十分話し合うことが必要

とまとめていられる。私は、何よりも、医療者任せにせず、自分自身が目をそらさずに真実を追求していくことが大事だと思っている。

家に帰りつき、ご近所の女神にいただいたお塩でお風呂に入った。こうしてエネルギーチャージをするのは、大切なセルフケアになる。

さて、もう本日になってしまったけれど、21日の夜はサロン 楓のところで、ほほ笑みながら、ら、看取るために看取られるためにできることのお話会。あと1席だけ空いているそう・・・・。このブログのリアルな話は現地で。ご興味のある方はをのぞいてくださいませ。http://www.salon-fu.net/contents_311.html


2015年8月15日土曜日

家で死ぬということ ①亡くなった後のエンゼルケアの役

目黒の学芸大学でチネイザン(気内臓療法)をしているホリスティックナースの日々のあれやこれや
家で亡くなるために必要なことは、一にも二にも本人と家族の強いコミットメント「最期まで家にいたい」という気持ちである。

それ以外には、亡くなった後の死亡診断書を家に来て書いてくれる医者と、看取りまでを支える訪問看護師がいれば、何とかなる。最期の数日、数時間というのは、どうしても体に変化が起こり、呼吸が変わったり、身体が動けなくなってどうしようと困ることがほとんどだ。
その時に、電話で相談できる人がいるというのは、心強く、大切な旅立ちに向けての体と心の準備をするのに助けになるのだと思う。

お盆の最中には、ご先祖様が迎えに来てくださるのか、亡くなってしまう人が多かったりする。
今日は、在宅でのエンゼルケアについてつづってみたい。

家で亡くなった後、訪問看護には大きな仕事がある。
それは、息をひきとった後の体を綺麗にすること、身体が傷まないように適切な処置をするエンゼルケアである。
そして、一番大切なのは残された家族への心のケアをすることだ。

葬儀やさんなどの業者にすぐ委託して、エンゼルケアをしない訪問看護事業所もあるようだが、今までその人にかかわっていたナースがケアすることに、大きな意味があると思っている。私達自身も、亡きその人への最期の別れに、身体に触れることで、さよならをすることができるのだと思う。

病院でもそれらはやってきたことだけれど、家で看取った後の違いを感じた。

病院の中での大きな違いは、家族だけで看取りができること。
一般病院では、モニターが装着してあるため、心臓が弱ってくると、医療者の出入りが激しくなり、何とも落ち着かない中にある。家族は、その人をみるよりも、モニターをみているのが、印象的だった。
緩和ケア病棟などの器械をつけない場所でも、医師や看護師が部屋をいったりきたりする。

もちろん、状態の変化があり、在宅医や訪問看護師が、訪問中に亡くなることもあるけれど、静かに息をひきとるのを
見届けることができるんだと思った。

人の体は亡くなると、誰もが知っているように硬直していく。最後まで使っていた筋肉から硬直するので、呼吸をしていた口から固くなっていく。
まずはじめに、口を綺麗にしてあげることからはじまる。葬儀やさんの手配や待っている時間のことを考えると、ナースがすぐに駆けつけて、すぐにケアができるのは大きいことだと思う。

家族と共に、ベッドの上で髪の毛を洗ってあげたり、足や手を洗っていると、体が不自由な中でも、シャワー浴をしていたことを話したりする。
「ここら辺がかゆいって言うんですよね・・・・・」ぽつりぽつりと、これまでの話していた言葉を口にする。
大変でありながらも、今となっては愛しい記憶をたどる大事なプロセスだと思う。

「まだあったかいですね・・・・」家族が一番よく言う言葉だ。その言葉に、まだその人に生きていること、命がかよっているいることを感じていたい想いが伝わってくる。愛する家族の最期の温もりを、共にエンゼルケアをすることで、受取れるのだと思う。

着せたい服や、アクセサリーをつけて、化粧をする。これも家ならば、すぐできることだ。

ナースとして悩ましいのは、その人の元気な時の眉毛を描くこと。
「どんなお化粧していましたかね?」と質問すると、さっと元気だった時の写真が出てきて、
「眉毛命でしたね。こんな感じでお願いします」とお願いされる。
そして、今まで使っていた化粧品を使えるのも、すごく嬉しいことだ。

私が何とかその写真をみて、お化粧をすると
「もうちょっと眉毛をこうして下さい。上唇はこんな感じで・・・・」と細かい注文がくる。
「すいません。最期なんでワガママ言わせてください」

どんどんワガママを言って欲しいと思う。これまでの家族の介護への尊敬と労いをこめて、どんなことでもやってあげたいと思う。数日の間、愛する人の顔をみるということを想えば、妥協は許せないと思う。
これも、これまでの信頼関係の中で、ワガママが言えるのではと思う。

全てのケアが終わった後、本当にお別れなんだなと思うと、家族と一緒に涙がこみあげてくる。

『悲しみが深いほど、その人を大切に想っていたこと、愛しているということなので、
どうぞその気持ちを大切にしてください。泣いていいんですよ』
との言葉をかけて、帰るようにしている。

泣くのを我慢しようとしている人をみるほど、我慢しないでいて欲しいと願う。
自分の中にある嘆きを大事にする人ほど、悲嘆のプロセスが早くすすむからだ。

自転車をこぎながら、わずかなその人の人生の中で、関われたことを振り返る。もっとこうしてあげればよかった・・・・
という想いの方が多いかもしれない。家族はもっとそんな想いにかられているのだろうと思う。
できるだけ悔いのない看取りをできるように、支えていきたいなと、また改めて思った。